2019.11.29特集バックナンバー
バンコクが舞台になった小説
宮本輝『愉楽の園』を読んで
バンコクを舞台にした小説の中でも、読んでおきたい作品のひとつ『愉楽の園』。
いったいどんな小説なの?
まだ読んでない人は読書感想文をまずどうぞ。
素晴らしい小説に出会うと、読後しばしの間余韻に浸るものだが、私はもう何年も『愉楽の園』の余韻 に浸り続けている。
初めて読んだのは、『春の夢』に衝撃を受け宮本輝 作品を読み漁った学生時代だ。読む前に一度訪れた ことのあるバンコクのねっとりとした湿気、排気ガス や用水路の臭いにまじって漂ってくる南国の花や香辛 料の香り、土色に濁った川などの記憶がありありと よみがえり、まるで、バンコクという町を一冊の本の 中に閉じ込めたように感じられた。特に、運河を小 舟で行き来する場面が強く印象に残った。
私にとって初めての異国の地であったタイは、好き、嫌い、知りたい、羨ましい、面倒くさい、お金が欲しい、自慢したい、お腹がすいた…などの感情を隠そうともしない、「生身の人間」をじさせる国であった。初めは戸惑いもしたが、気づけば十年以上もの間タイで暮らしているのは、ここなら自分を飾らず、ありのまま生きられるのでは、ということを本能で感じ取り、喧騒と退廃の併存する混沌とした雰囲気に心地よさを覚えたからなのかもしれない。それは、この本に出てくる、「バンコクの魔法にかかったのさ。…この国には、なんか媚薬みたいなものがたちこめてる。」という言葉で言い表せるような気がする。
『愉楽の園』は、30〜40年ほど前のバンコクを舞台に、王族の血を引く政府高官の愛人として何不自由ない暮らしをしている日本人女性と、世界中を旅して生と死を見てきた日本人男性との恋愛を中心に展開する、異国情緒とミステリアスな雰囲気が漂う小説である。「読書をするぞ!」と意気込む必要はない。入り組んだ運河のように絡み合ったストーリーが、ゆっくりとした運河の流れのように読んでいる者の中に流れ込んでくる。ただ、その流れに身を委ねていればいいのだ。
宮本輝の文章は、読んでいる者を小説の中の世界へ連れて行ってくれる。情景が目の前に浮かぶだけではなく、匂いや、手触り、音など、まるで自分がその場にいて体験しているように感じられる。満開のブーゲンビリア、小舟のギシギシと揺れる音、湿った生暖かい風、フルーツの甘い匂い、喜び、悲しみ、怒り、戸惑い…。私は未だに茶色い水の上をゆっくりと小舟が進んでいる情景が頭から離れない。そして、ヒロインの優柔不断さや、ラストの選択も、時々ふと思い出して考えてしまうことがある。
『愉楽の園』のページを開けば、いつどこにいても、 一昔前のエキゾチックな魅力漂うバンコクに身を置くことができる。しかし、せっかくバンコクへいるなら、チャオプラヤー川沿いの高級ホテルやお洒落なカフェで読むことをお勧めしたい。そして、ぜひ、まだバンコクを訪れたことのない知人にこの小説を薦めていただきたい。
イシハラケイコ
タイの大学で教鞭を執ったのち、現在はフリーの翻訳家・通訳であり一児の母。
読書は主に飛行機の中。数冊読む月もあれば、全く読まない月も。
翻訳の依頼は aerial.in.chain@gmail.com まで